短評 | Three Victories and a Defeat: The Rise and Fall of the First British Empire

2012年1月10日

Brendan Simms

Three Victories and a Defeat: The Rise and Fall of the First British Empire

London (Penguin), 2008

ISBN: 978-0-140-28984-8 (paperback)

英国はヨーロッパ大陸とどのような関係を構築するのか、現在でも決めかねている。英国人の多くは自身を「ヨーロッパ人」と呼ぶことはほとんどない。なぜならば、英国とヨーロッパは別だという意識が強いから。しかし、英国はヨーロッパと緊密な関係にあり、ヨーロッパ大陸で起きることは英国に影響を及ぼす。著者は、これは過去ではそうであったし、今後もそうであろうという。

18世紀の英国は帝国を築く過程にあった。そして大英帝国は、イメージとして海軍力という「木の壁」に守られ拡張したという見方が一般的かもしれない。しかし、18世紀、英国人にとって「帝国」とは多くの場合、神聖ローマ帝国のことを指していたし、英国と神聖ローマ帝国の繋がりはかなり強く、英国の外交の要でもあった。18世紀の君主ジョージ1・2・3世は英国王であるとともにハノーファー選帝候でもあったし、神聖ローマ帝国内の政治には気を配っていた。また君主の周りには、多くのハノーファー出身者が側近として仕えていたし、また英国の政治家もハノーファーの利害を忘れると、王の信任を失うことがあった。

18世紀の英国の仮想そして実際の敵はフランスであり、フランスの膨張をどのように阻止するかが、重要な課題であった。このため、第2次百年戦争という呼び名も合っているだろうか。英国はスペイン継承戦争・オーストリア継承戦争・7年戦争で、海外領土特に北米をドイツにて勝ち取った。そしてアメリカ独立戦争をドイツで失った。ここでの「ドイツ」はある特定の地域を指しているのではなく、「ヨーロッパ大陸にて」と理解した方がよいだろう。

基本的に英国の戦略は、ヨーロッパ大陸の同盟国を頼りにして、フランスをヨーロッパ大陸での陸戦に巻き込み、陸にしろ海にしろ単独でフランスと対峙しないこと。そして、最初は反仏の軸としてネーデルラントとオーストリアを主要同盟国としていた。これは現在のベルギーに当たる地域が、ユトレヒト条約でスペイン領からオーストリア領となったため。まず、フランス北東部と接するオーストリア領ネーデルラントが、フランスを止める最初の障壁。そして、オーストリアつまりはハプスブルク家、そしてすなわち神聖ローマ帝国皇帝との同盟で、ハプスブルク領の軍事力とドイツ諸侯の多くを味方につけ、フランスに陸戦を余儀なくさせる。一方、英国はこの間、海軍力を利用し、北米やインドなどでフランスと有利な立場で交戦する。

この基本戦略はスペイン継承戦争(1713年)終了時、トーリー党率いる英国がほぼ一方的に反仏連合から脱退し、講和に至ったため、同盟国の反感を買い、再構築する必要があった。まだまだ政党政治が確立されたわけではなく、党内には幅広い意見が存在したが、一般的にホイッグ党はヨーロッパの同盟関係を重要視していて、対するトーリー党は英国の海軍力を強調する立場にいた。18世紀はヨーロッパ重視戦略のホイッグの考え方が主流だったし、長い間ホイッグ党が政権を握っていた。

4カ国同盟戦争(1718〜20年)や英西戦争(1727〜29年)やポーランド継承戦争(1733〜35年)などもあったが、次にヨーロッパをほぼ全て巻き込んだ大規模な戦争となったオーストリア継承戦争では、英国はオーストリアの側に立った。前年1739年にスペインと英国はすでに交戦していたし、フランスが主要敵国であることに変わらなかったし、オーストリアなくしてはフランスの膨張の障壁なしという状況。北米で英国はフランスに勝利したが、ヨーロッパの陸戦では、同盟国のネーデルラントやオーストリアが苦戦。結局、オーストリアはシレジアをプロイセンに奪われてしまう。北米では、英国と英植民地の民兵がフランスのルイブール要塞を陥落させたが、ヨーロッパとインドでフランスに奪われた一部の領土と引き換えに、フランスに返還された。つまり、英国は、北米の領土よりもヨーロッパの均衡そしてインド領を重視する立場を取った。

しかし、外交革命は英国の基本戦略を完全に覆すことになった。オーストリアにとっては、さきのオーストリア継承戦争でプロイセンに奪われた、シレジアの奪回が最も重要だった。フランスもオーストリアを相手とするよりも、英国憎し。オーストリアが同盟国であれば、陸戦に巻き込まれることもないという判断。更に言えば、ハノーファーは攻めやすい場所にあった。プロイセンはハノーファーの隣であるため、脅威でもあったが、ネーデルラントの弱体化と外交革命によって同盟する相手がなくなりつつあった英国にとっては必要な存在だった。仏墺露の3大国を敵に回しての、プロイセン・フリードリヒ2世の奮闘ぶりは周知の通り。ロシアのエリザヴェータ帝の死という運もあって、プロイセンは何とか切り抜けた。しかし英国は、そのプロイセンに戦争後半に軍資金の援助を打ち切るなど、フリードリヒ2世の不信を買った。7年戦争で英国は、北米とインドでフランスに対し勝利して領土や利権を勝ち取り、第1次大英帝国は絶頂期をむかえた。でも、醒めた見方をすれば、英国のヨーロッパ大陸における対仏戦略は破綻していた。盛者必衰だろうか、次のアメリカ独立戦争で、英国は手痛い敗退を喫する。

敗戦とは多くの場合、外交の失敗の結果である。アメリカ独立戦争で英国は、ヨーロッパ大陸に同盟国なしという状況に陥った。これは続けての勝利による、英国の慢心と過信によるところもあっただろうし、海軍力に依存する傾向が強まっていた。また他国に軍資金の援助を行うことを惜しむようになったこともあげられる。つまり、これまでのように、フランスの戦力を分散させ、陸戦で消耗させる基本戦略が不可能となった。逆にフランスは、ヨーロッパ大陸にての陸戦の心配をせずに、後にアメリカ合衆国となる勢力を援助することができた。英国の海軍力は確かに優れていたが、フランスとスペインを敵としたので、絶対的ではなく、本国防衛のため、全力を北米に向けることができなかった。英国は海軍力を頼るも、他国の反感を買い、ロシアが中心となり武装中立同盟が結成された。更にフランス以外にもスペインやネーデルラントにも宣戦を布告され、結局米国独立を承認せざる得なかった。

アメリカ独立戦争で、ヨーロッパで孤立し、負けた苦い経験を、英国は忘れなかった。18世紀末19世紀初頭の対仏戦争において、崩れようが、同盟国が負けようが、何度も何度も対仏大同盟を構築し再構築した。

上記以外の大西洋のみならず、地中海・バルト海・東インドについても言及されていて、まさに英国の外交と戦略を多面的に捉えている、18世紀の歴史を勉強するならば、必読の一冊。