どうも日本では「外国語」というと即「英語」と考えがちだが、今回は英語以外の言語を含む外国語教育について書いてみるし、またその一環としての英語教育について少し意見を述べたい。私見であり、一個人の経験に基づいた文章なので、あまり役に立つこともないだろうが。
日本ほど本屋にいくと外国語習得用の本・カセット・ビデオが並ぶ国も珍しいし、学習熱もある。けれども一般的に三日坊主というか才能がないのか、怪しい英語やらドイツ語を自慢げにしゃべっている日本人に多く遭遇してきた。もちろん全員がそうではなく、なかには大人になってから流暢な英語を習った人も知っている。すくなくとも学習欲があるのはいいことだと言える。なぜ外国語を習わないといけないのか、という疑問を呈することもできようが、今回はそんな厄介な問題は取り扱わず、ただいいことであるとの考え方を前提とする。
さて外国語を習うというのは評価されるべきことだが、一生のどの時点で始めるかが問題だ。小学生か中学生あるいは大人になってからだろうか。よく議論の的となるのが、小・中学校での英語教育だ。両極端の主張は以下のとおりだと思う。
1)言語を習うのには若ければ若いほどいい。だから、小学校低学年、いや幼稚園から始めるべきだ。
2)一番大切なのは母国語であり、外国語は基礎ができたあと始めるべきだ。
両論とも一理あるような気がする。何事も中庸が一番といえばいいのか、個人的には小学校中学年ぐらいから始めるのが妥当だと思う。専門家ではないが、母国語と外国語の習得方法は別のようだ。母国語はどちらかというと「自然」にできるもので、外国語は文法や語彙を一所懸命に「勉強」してようやく会得するものだ。幼稚園児に英語を学ばせようとするのはどうも不可解だ。まず母国語の基本中の基本ができる前に外国語も習うと脳が混乱する可能性がある。本当のバイリンガルというのは、二ヶ国語を母国語としているのであり、外国語学習とは違う。日本に住み、かつ両親の母国語が日本語の場合、子供がバイリンガルになるのは不可能に限りなく近いのではないだろうか。でも逆に中学校というのは遅すぎる。日本の小学校高学年相当の時点から始めたドイツ語とフランス語はまだ結構頭に残っているが、大学で始めたラテン語とロシア語は文法は覚えていても語彙はないし、また喋ることもできない。
「いつ始めるか」が問題であれば、またどの言葉を習うかも考えるべきだろう。私は必ずしも英語を第一外国語として習う必要はないと思う。日本にとって韓国語や中国語を学校の科目として導入するは大変有意義だと主張する。また北海道ではロシア語もいいのではないだろうか。こういうと日本の言語的ナショナリストの標的になるだろうが、どうも一番身近な人々の言語を習わないというのは偏見に基づいているようだ。ドイツにもあることで、フランス語や英語をうまくはなすのに、トルコ語やポーランド語を学習しようとするドイツ人は少ない。イギリスにも存在するが、言語には階級があり、ヨーロッパ各国語が一番上である。その中でもロマンス系のフランス語やイタリア語が重要であり、ドイツ語はどうやらその下の二次リーグだ。スラヴ各語はそのまた下。移民の国イギリスではいわゆるバイリンガルの二世や三世が多い。でもベンガル語ができようが、ヨルバ語ができようが、あまり評価されない。無論英語の重要性を否定するつもりではないが、この世界には他の多くの文化が存在するので、英語ができるだけで威張っていてもしょうがない。英語ができれば世界中の人と話ができる、というのはひどい勘違いであり、多文化を否定するようなことだ。イギリス人やアメリカ人の多くが外国に旅行しても英語で通そうとしているのをみるとどうも腹が立つ。また下手な英語を使い、非英語圏で偉そうに我を通そうとする日本人もみっともない。
外国語=英語の延長線と呼べばいいのだろうか、極端な言語政策として日本における英語公用化論がときたま見受けられる。日本語ではなく英語を「公用化」するのには反対だ。公用語化するとかなり面倒なことになる。立派な理由ではないかもしれないが、とにかく「面倒」なのだ。日本語のみでも充分に生活できるのだし、実際に英語を使う機会も日本国内ではないだろう。必要もないのに言語教育はもとより法律から役所や職場まで二ヶ国語制にしないといけないからだ。そうでなかったら「公用語」としての意味がない。例えば、大学卒業の条件として英語の試験に受からなければいけない、というのとは違うのだ。日本語がわからない人に説明が必要な場合には、英語や他の外国語での対応ができるぐらいのことは、住民サービスとして行われるべきだが、「公用語」とは違うと思う。イギリスでは移民に配慮し納税書や住民票や選挙登録にはヒンディ語・スペイン語・アラビア語などなどで説明書が同封され、各言語での電話相談の受付もある。
あとよく言われることだが、言葉は意思伝達の方法だ。話す中身、つまり教養がなければ、いくら言語に堪能であったとしても意味がない。だからといって、中身だけあればいいということではない。両方とも必要なのだ。外国語も最終的には均衡のとれた学習環境の一部としてみるべきだろう。これをどうやって達成するのか、というのは根本的な問題だ。さてさて、それはまたの機会に。