読書日記 | 『逃げる百姓,追う大名 : 江戸の農民獲得合戦』

2010年12月13日

人類史上、現在の先進国のようなごく稀な場合を除き、第一次産業に従事する人が圧倒的に多かった。そんな農村部の歴史については謎が多く残る。人は多かったのに、現存する史料が乏しいのも理由にあげられるだろうか。それでも近頃は残る史料をもとに研究がなされていて、例えばエルベ河以東のヨーロッパやロシアにおける農奴制度も、農奴全員が土地に縛られ、無気力で、貧しく、虐げられた存在というのは間違った像であることがわかりつつある。農村も階級社会であったし、また全員が田畠を耕していたわけでもなかった。そして決して一生同じ村で同じ仕事をしていたわけではなく、なかには比較的自由に移動した人もいた。それでも中世期にはあった去留の自由が近世期には束縛されていったのは事実のよう。

さて、日本史における「百姓」もまさにいろいろな人々の総称と呼んでもいいかもしれない。そして江戸時代初期・幕藩体制が整いつつある時期には多い「走り」百姓が存在していたことをまとめたのがこの本。走るとは個人あるいは家族単位で、住んでいた領地から違う領地に移ったことを指す。集団単位でお上との交渉手段としても利用された「逃散」とは違った。

戦国・安土桃山時代の戦乱がようやく終熄して藩の支配体制も築かれる途中、そして荒廃した田畑が多くあったので、領主は百姓増加を望んでいたときでもあった。そのため、場合によっては生活苦あるいは年貢や賦役の重圧から逃げ出す理由もあったが、他領の領主による賦役免除などの優遇策に惹かれたりより良い立場を求めて移動する機会を窺う百姓も多かった。領主も高札を立て、走った者の帰国を推奨した。大雑把に言えば、領主としては百姓は欲しいし他者には取られたくない。一応、藩と藩の間には多くの場合走り百姓を相互に返還する協定も存在したし、武家諸法度元和令によれば他国の者を召し抱えることは禁じられていた模様だったが、走り百姓が全員返還されることはなかった。多くの走り百姓は事前に走り先があって、受け入れる側もそれを歓迎することがたびたびあったという。

そして「走り」は藩と藩の国境を超えるのみではなく、藩内でもあった。藩主の蔵入地の他にも家臣の知行地があったし、著者が例としてあげている細川氏の場合は、家督を忠利に譲った細川忠興の隠居領もあり、走る百姓にとっては行き先が多かったこともある。

一体どれだけの数の走り百姓が日本全国に存在して、どのような理由で走ったのか、そしてどのような状況であれば走らなかったのか、今後とも研究が期待される分野に思えた。