#18

写真と記憶

これから数年かけてここ20年ほどの写真を編集して掲載しようと計画中。年々写真を撮ることが記憶のために重要だということが分かってきた。特に映像の記憶がない「アファンタジア」の人間として。

昔の自分を問い詰めたい。

「なぜもっと写真を撮らなかったのか?」

これまで撮った写真を2006年から順に編集してこのサイトに掲載している。20年分。現時点に追いつくまで数年かかるだろう。かなり前にデジタル写真を整理して、全てを Google フォトに移行したはずだが、どうやら2009年のデータの一部を紛失した模様。リニューアル前のサイトに掲載していた、雪が降った日のロンドンとバルセロナ旅行の写真。データがどこかに眠っていないだろうか。

2012年頃まではデジタルでも撮りたい写真に拘っていた。下手なのに。下手な鉄砲も数撃てば当たるものなのに。下手な写真も数多く撮ればまぐれで上手に撮れることもあるのに。世代として、写真を撮るとフィルム現像に料金がかかるのが身に染み付いていたためだろうか。櫛の歯が欠けたように写真を撮らない時期があったり、撮りがいのある観光地に行ってもあまり撮っていなかったり、妙に同じ被写体ばかり撮ったり、今となってはもったいないことをしていたと痛感している。撮りすぎたと思うくらいが良い。

自分の記憶力を過信していた節が。写真という手がかりがなくても大丈夫、ちゃんと覚えていられる⋯⋯。そんなことはなかった。今見返していると、写真という「点」があって、なんとなく「線」が引けそうなくらい。さらに私は映像の記憶というのがなく、いわゆる「アファンタジア」に属する人間だと数年前に気づいた。アファンタジアとは「目を閉じて〇〇を想像して」や「頭の中で〇〇を思い描いて」と言われても、〇〇のイメージが浮かばない人たちを指す。例えば「りんごを思い浮かべてください」と言われても、絵というか映像としてのりんごが出ない。それで「思い浮かべたりんごは、大きいりんごですか、それとも小さいりんごですか?」や「何色のりんごですか?」と尋ねられても、私にとって完全に意味不明な質問でただただ困惑する。大きくも小さくもない、赤でも黄緑でもない、そもそもないものはない、何を言っているのだ?

写真を見ると、どこで何をしていたかは思い出せるが、その思い出は鮮明な情景として浮かんで脳内で再生されるある種の追体験ではなく、正確な表現に当たるか分からないが、自分では「メタ化された情報が出力される」と捉えている。写真を見て例えば「懐かしいな」や「楽しかったな」という感想は湧いても、その時覚えた感情や感動が再び蘇ることはない。その場その時を刹那的に生きざるを得ないのかもしれない。少なくとも「今」を大切にしないといけないタイプ。過信するどころか、映像の記憶自体存在しなかった。そのため私のような人間にとって、写真を撮るというのは非常に重要。

なぜこれまで執拗に下手な写真を多くサイトに載せてきたのか、自分でもちょっと不思議だったが、頭の中に映像として残らない分、どこかで何らかの形で画像として記録しなければという意識が潜在的に働いていたのかもしれない。今でも決して写真を撮ることが上手になったわけではないが、撮れるだけ撮ろう。