紙の本と電子書籍

長い間電子書籍を読むことを避けてきたが、ここ数週間はスマートフォンで Amazon Kindle と Google ブックスのアプリケーションを使っている。紙の本とアプリケーションにつき1冊、計3冊の本を同時に読み進めている。

紙の本は図書館で借りた God’s War: A New History of the Crusades という十字軍の歴史。900ページ超の大作で現在3分の1ほど読んだ。電子書籍だが Amazon Kindle アプリケーションでイタリアのマフィアの歴史をたどった Mafia Republic: Italy’s Criminal Curse. Cosa Nostra, ’Ndrangheta and Camorra from 1946 to the Present 読了後、プライム会員だと無料で借りられる Prime Reading でオリバー・クロムウェル下のイングランド共和国を扱った Providence Lost: The Rise and Fall of Cromwell’s Protectorate を読んでいる。そして Google ブックスでは北アイルランドの助成金スキャンダルを追った Burned: The Inside Story of the ‘Cash-for-Ash’ Scandal and Northern Ireland’s Secretive New Elite を読みはじめた。

現在でも紙の本か電子書籍の二者択一であれば、迷わず紙の本を選ぶが、電子書籍が不自由というわけではない。子供の頃から「本」は「手に取って読むもの」ということに慣れていて、囚われていて、考えが古いだけのことだろう。本を読むにあたって、私はこれまで同時に何冊も同じ言語の本を読むことが苦手だった。無論できないことはないし、本を単なる情報源として利用するときは、必要な部分だけ読んでいたが、できれば一冊の本に集中して最初から最後まで読みたい。一冊読みおえて次の本を読みはじめる。専門書でも実用書でも小説でも。これはテレビ番組や映画やスポーツに共通するところがあり、途中から視聴したり鑑賞したり観戦すると何か満ち足りない気分がする。しかし、紙の本とアプリケーションをそれぞれ違うものと認識しているのか、同時に数冊の本を読むことにあまり抵抗がなくなった。

心情的に紙の本が良いというのは十分に分かるが、電子書籍を忌み嫌う人は、一部の極端な場合、電子書籍が紙の本に取って代わるのは、即ち文明の衰退でもあるかのような主張をする。果たしてそうだろうか。本の内容は紙に印刷されようが画面に表示されようが同じだ。木簡や羊皮ではなく紙を使ったり巻物から本になった時に、同じような危惧があっただろうか。

紙の本はなくならないだろうという楽観的な考えが私にある。紙の本には書かれている内容の容器という役割だけではなく、造形物としての美がある。表紙や紙質や書体やイラストや匂いなど、全ての要素を一つの形にすることは電子書籍では無理。これからも紙の本を買ったり借りたり贈ることを続けるだろう。