真の話芸

ここ数年、テレビをほとんど観ることがなく、音楽の他にニュースやトークや討論や座談会などをラジオで聴くことがある。集中して聴くこともあれば、ながらで聞くことも。言語を学ぶため、ヨーロッパの様々のラジオ局の短いニュースを聴取することを日課にしている。内容を完全に把握できなくても、そのうち耳が慣れるのではないかと欲張りな期待をして。ちなみに家にテレビはないので、映像メディアはBBCのオン・デマンドや Amazon プライムや YouTube などコンピューターの画面で観る。

ラジオは受け手に最も労力を強いる媒体でなかろうか。映像がないのでリスナーに想像力が求められる。その論理であれば活字が一番頭を使うように見えるが、読者は自分のペースで読むことができる。ラジオだとパーソナリティーつまり聞き手からすると他人がペースを決める。今なら一時停止したり巻き戻したりすることができるが、流れが悪くなるので、基本的に放送をそのまま聴く。ラジオ聴取や読書にはテレビ視聴では味わえない充実感がある。ただそれなりの集中力を要するので、だるかったり疲れていいて、頭を使いたくないときにはテレビや動画のドキュメンタリーやドラマを観たりする。

テレビは映像で膨大の量の情報を伝えることができるが、視聴者として一方的に消費というか伝達された情報を処理しているように感じる。受動的。ニュースだったらテレビで映像を観るよりも、新聞で写真をじっくり観た方がはっきりとした考えが浮かぶ。そう感じるのは私の頭の回転がそう速くないせいだろうが⋯⋯。テレビを観ていて何かおかしいと思ったら「おい、違うだろ!」と突っ込むことはできても、その後どうしておかしいのかしっかり広げることはできない。反応はできても考えることはできない。受け身のまま次へ次へと進み新しい情報の処理に追われる。ラジオはゆっくりしていて情報量も限られているし、映像の要素は言葉で表現して伝える。テレビでは許されないような贅沢な時間の使い方ができる。その分内容について考えたり、同意したり、反対したり、テレビ以上で活字同様に能動的。遅いが深い。

更に変な事を書いている⋯⋯と思われるだろうが、真の「話芸」は生放送のラジオだと確信している。話芸だと落語や講談を連想するかもしれないが、これらは寄席で演者を観ながら楽しむもの。ちょっとした仕草や表情の変化や動きが重要であり、前提として演芸場で観て聴く芸能。ラジオは最初から聴くだけの媒体。

聴取者を惹き付ける生放送を毎週または毎日担当しているパーソナリティーは凄い。特に一人で切り盛りしている場合。生放送は編集に頼ることができない。常に放送事故と隣り合わせの一発勝負の世界で、映像のあるテレビと違い音声と言葉による表現が頼り。聴いている人を置いてきぼりにせず、かと言ってまどろっこしくなく、鬱陶しくなく適度に聴取者に呼びかけ、突発的なニュースや事件に対応する能力と気力と胆力が求められる。

パーソナリティーが聴取者の想像力を削がず膨らませるのはまさしく名人芸。聴いていると情景が思い浮かび、ついつい我を忘れることもある。情景はパーソナリティーとリスナーの合同作品で、ラジオ番組の放送中に聴取者の数だけ違う儚い世界が存在する。活字における作家と読者の関係に似ているが、ラジオの生放送だと同時に数多くの世界が創生されている。パーソナリティーからしたら一対多数の関係だが、リスナーからすると共同作業をしている一対一の関係に感じられる。複数のパーソナリティーが担当する場合は、違うテーブルの会話を盗み聞くのではなく、あたかも同席して家族や友人や同僚の話を聴いているような気分になる。一対一の関係ではないが、かなり親密。

今日はどんなラジオを聴こうか。