国民的〇〇

新型コロナウイルス感染症により気楽に旅行できない期間が長く続いているが、長距離国際線で運用されている飛行機の各座席にモニターが付いているのが今では当たり前。でも私が子供の頃は違った。バシネット席の所がスクリーンになって、映画が上映されていた。もちろん観ないという選択肢もあったが、多くの乗客が1本の映画を同時に観ていた。同じところで笑ったり驚いたりしていた。

飛行機の各座席にモニターが設置され、タブレット端末やスマートフォンを持つ乗客が増え、好きな時間に好きな映画を観たりゲームで遊んだりすることができるようになったのと似たように、社会全体で娯楽と趣味が多様になり細分化された。ある意味分断とも言えるだろうか。でも悪いことではない。なぜなら自分が興味あることに没頭できるから。同調圧力で、興味もないのに知らないといけなかったり、興味を持つふりをするということも少なくなった。もし上下の力関係が存在する中で、目下の人に自分と同じ趣味趣向を押し付けようものなら、完全なパワハラと捉えられるだろう。

変な言い方かもしれないが、社会のオタク化とオタクの希釈化が同時に進行しているのではないだろうか。インターネットによるところが大きい。テレビ・ラジオ・新聞・雑誌などの媒体で、人口は小さくないが、大きくもなく、色物扱いされ、あまり取り上がられなかった分野についての情報が、ウェブで溢れかえっている。ほぼ誰しもが何らかのインターネットに接続できる端末を持っている時代なので、気になればすぐに調べることができ、情報は玉石混淆かもしれないが、深い知識を得ることができて「オタク化」し、同じ趣味を共有する人とSNSなどで簡単に繋がることができる。マイナーな趣味だったら、以前は専門誌の購読やグループやクラブやイベントに参加するなど、金と時間と努力と覚悟と人脈を要した。周りからは理解されなかったり小馬鹿にされたかもしれない。今は誰でもファンになれる。簡単に入れるし、簡単に脱けられる。そんな新参の「にわか」を歓迎するか拒否するか、既存のファン・オタク・マニアの反応は人それぞれだろうが、入ってくる新規加入者を止めることはできない。そのため「希釈」が起こる。ただ新参者を拒む場合は、少数で閉鎖的になって先鋭化も起こりうるだろうか。

社会の多様化細分化によって、長期間に亘って功績を残し人気を博して幅広く認知される人物が登場するのは、だんだん難しくなったような気がする。スポーツだと、東京五輪と北京五輪後の現在なら、メダルを獲得したり印象に残った選手たちが「時の人」だろうか。でも数年後に同頻度でメディアに登場しているだろうか。こう考えると日本スポーツ界で最後の「国民的」スーパースターはイチロー氏ではなかっただろうか。野球はもとよりスポーツに全く興味がなくても、大人でイチロー氏を知らない人は少ないだろう。イチロー氏の偉大さはもちろんだが、まだまだ野球が「国民的」スポーツだった時代があった。昨年MLBの公式 YouTube チャンネルで大谷選手の動画を観ていたら、思わず「凄いな⋯⋯」と嘆声が出ることが多かった。大谷選手はすでにスーパースターだと思うが、今後故障なく試合に出場しつづければ活躍して紛う方なきスーパースターになる。しかし野球自体に過去の日本の社会やメディアで占めていた勢いはないので、野球のスーパースターになれても、なるべき国民的スーパースターになれるだろうか。芸能界も似たように「国民的」俳優だったり歌手だったりアイドルなどというのは、今の時代生まれうるものだろうか。

スポーツまたは芸能の世界のみならず、あらゆる芸術分野や商品で国民的〇〇と銘打っていても

「知らない、関係ない、興味ない」

と反応するあるいはしたい人も多いはずだし、口にする人もいるだろう。昔もそう考えていた人が多かっただろうが、メディアや広告会社が勝手にそう名付けて祭り上げていたので、本当に国民的〇〇で自分も一国民として興味を持たなければならないのかと思った人もいただろうし、知らないと会話に取り残されたり恥をかくかもしれないと心配したこともあっただろう。

今の多様化・細分化・分断化された時代に国民的〇〇と打ち出すマーケティング戦略が有効なのか甚だ疑問。大袈裟というか虚ろに映ってしまう。