監督気取りプロデューサー気取り

大人数で現地だったりテレビでスポーツの試合を観戦して応援するチームが負けた時、どこかで酒を飲みながら管を巻くのは一つの楽しみ方。大体酒が回りはじめる前から監督が槍玉に挙げられる。

「なぜあの場面で⋯⋯!」

「俺だったら⋯⋯!」

無能だの解任すべきだの騒いでも、本気で自分が監督を努められると思う人は少ないだろうし、監督も批判されるのは仕事の内と捉えているだろう。

しかし中には自分が監督だったらもっと成績が良くなると固く信じている人がいる。選手としての能力がないのは明確なので自覚しているが、監督はできると思っている。スポーツの他にも芸術や表現の世界でも、ただ個人の感想を述べたり評論するのではなく、自分だったら他人により良い作品を作らせることができると確信している人が存在する。作者や演者としてではなくプロデューサーとして。

「だったらやってみろよ」

とでも言おうものなら、一度もやったことがないのに、本当に

「今すぐにでもできる」

と信じている。どこから来るのか定かではない、根拠なき万能感。10代20代なら無知や経験不足による若気の至りで理解できるし少々自分の事を過信しても良いと思うが、不惑とされている40を超えても

「自分が本気を出せば⋯⋯」

などと広言を吐けば、俗に言う「痛い人」だ。耳順を超えてもこのようだったら「老害」と呼ばれても仕方がない。このような人たちは周りの冷めた視線に気付かないのだろう。

昔ならその場その時に居た人たちにしか届かなかったが、現在はインターネットで監督気取りプロデューサー気取りのありがたいアドバイスが万人に伝わる。SNSだったり YouTube のコメントだったり、非常に優秀な人たちが

「ぼくのかんがえたさいきょうの⋯⋯」

アイディアや改善点を書き込んでいる。それも

「自分だったらこうする」

「こうしてほしかった」

と自身の体験に基づく発言をしたり、願望を言うのではなく

「こうすべきだ」

と他人に指示する。もちろん指示された側はどこの馬の骨だか知れない者が書いたことに從うことはほとんどないし、そもそも読んでいない場合が多い。

なぜこのようによい大人が、皮肉でも冗談でもなく本気で、面識もない専門家やプロにああだこうだ言えるのだろう。心理学についての知識はほぼ皆無なので、下記は学術的に間違っている可能性が高いが、他人を自分の思いのままに指示・操作することによって自分の欲求を充たすという意味の支配欲ではないような気がする。もっと幼稚⋯⋯は適切な表現ではないかもしれないが、自他分化が未発達というか、他人は自分と同じように考えているあるいは考えるべきで、一心同体で同じ夢に向かって進んでいるという幻想があるのではないだろうか。そのため一心同体のはずである他人が自分が描く理想と違うことをすると、混乱したり裏切られたと感じ、自分の思い込みと現実の差で生じた齟齬を解消しようとして、苛立ちながらネットに真剣に届くはずもないアドバイスという名の命令を書き込む。

一時期はそのようなコメントを読みながら心の中で罵倒か嘲笑するという非常に趣味の悪い事をしていた。そんなことをしても時間を無駄にしているだけので、数年前にやめたが、時々SNSや YouTube のコメント欄を眺めると、相変わらず元気な監督気取りプロデューサー気取りが多いことに驚く。