Horses for courses

大学院生時代のことだからかれこれ20年前、学友数名と他愛のない会話をしていた。その日は Grand National という長距離障害競走の競馬の日だった。過酷なレースで多くの馬が脱落したり騎手が落馬したりすることで有名。テレビで放映され、一般紙が数面に渡って特集を組み、競馬に興味がない人でも馬券を買うことが多い。今年(2023年)は第175回で今日(4月15日)の午後に行われる。私は基本的に賭け事をやらないが、英国では何事も賭け事の対象にする。サッカーの試合中継のCMの多くがブックメーカーで、単に試合結果だけではなく、誰がいつゴールを決めるか、コーナー・キックの数はいくつかなど、試合中に起こりうる全ての事象にオッズがある。ギャンブルというのはある程度のスキルが求められるが、自分にその能力がないので手を出さない。やるとしたら全てが運任せの宝くじ。何年間宝くじからも遠ざかっていたが、ひょんなことから昨年の初めに買ったが当籤しなかった。その後も1等が数千万ポンドや億ポンド単位になったら当たらぬだろうが買っている。夢を買っているとも言えようか、やけに金がかかる夢。閑話休題⋯⋯話を20年前に戻すと、誰が言い出したのか、会話の流れで「みんなで10ポンドずつ賭けようじゃないか」ということになり、近くのブックメーカーに行った。少し記憶が曖昧だが、結局何も知らない私は、たしか人気上位の数頭の中で面白いと思った名前の馬の複勝の馬券を買ったところ、ビギナーズ・ラックで3着になって、十数倍になって戻ってきた。かなりの額になったのは覚えている。同じく払い戻しのあった馬券を買った者もいて、みんなでパブに行って大いに飲んだ。翌日飲み代に消えなかった分で高めの本を数冊買った思い出が残っている。

競馬に詳しい人ならパドックで馬の調子を下見したり、天気やコースの状態を分析したり、馬とコースの相性を考えたりするだろう。違うコースには違う馬が合う。英国英語の表現で horses for courses というのがある。現在の意味は一般的に「適材適所」だ。ただ人間(人材)だけではなく、制度や組織または手法や過程にも適用される。あと場合によって、人それぞれ違う好みがあるという「十人十色」のニュアンスで使われることもある。19世紀の書籍に「コースに合った競走馬の繁殖」や「コースに合った馬に賭ける」のような文脈で字義的記述はあっても、独立した比喩の「適材適所」という意味での horses for courses の使用例は、簡単な Google ブックス検索では見つけられなかった。いつ頃に慣用句として使われはじめたのか不明だが、議会議事録 Hansard を検索したところ、1959年に後に首相となるハロルド・ウィルソンが庶民院で

. . . and on the doctrine of horses for courses, I welcome his promotion.

⋯⋯適材適所という原則に基づき、彼の昇進を歓迎する

と発言していた。議会であまり浸透していない口語を用いることはないため、20世紀中葉に書き言葉としても使われていたのだろう。書籍ではなく新しい表現が使われやすい新聞や雑誌の記事を検索すれば良いのだが、比喩・慣用句的読み方(適材適所あるいは十人十色)と字義的読み方(コースに合った馬)両方があり、どちらとして使われているかを選別する必要があり、膨大な時間がかかるだろう。本当に数分調べただけで見つけたのが、1938年3月7日に複数の新聞に掲載された記事。

Horses for courses: Or what suits one doesn’t suit another which is just as well, otherwise we should have a very dull world.

Horses for courses つまり一人に合うものは他人に合わない。それは良いことだ。そうでなければつまらない世の中になってしまう。

意味として「十人十色」に近い。そして比喩を説明しているということは、この時点でまだ慣用句として認知されていないと書き手が考えたからだろう。もし多くの読者に伝わるのであれば、いちいち説明することはない。1940・50年代を経て「適材適所」という意味が主流になって、議会で議員が使うほどの認知度を得たのではないかと推測される。

中国語に関して無知で漢学というか漢籍の素養はないが、どうやら「適材適所」は建築における木材の使い分けを源とする日本語の表現であって、中国語で近い四字熟語は知人善任量才錄用量材錄用らしい。人をよく知ったり、人または人の才能をよく量り、力が発揮できる場に任命すること。量才録用(りょうさいろくよう)は日本語の四字熟語として辞典に載っている。適役に人を登用したり任命するだけではなく、不適合というか職に合っていない現職を罷免することを「黜陟幽明」という。難しい漢字が並ぶが「ちゅっちょくゆうめい」と日本語でも四字熟語として記されている。登るあるいは升遷という意味のという漢字は、諸葛亮の出師表でも「陟罰臧否」という表現で使われているが、この場合、意味合いは「勧善懲悪」に近いだろうか。陟罰(ちょくばつ)と臧否(ぞうひ)はそれぞれ「昇任と処罰」と「良否・善悪」という意味の単語として日本語の辞典に載っているが、陟罰臧否という四字熟語として認識はされていないようだ。話がかなりコースから外れてしまった。