大学院の将来像

2009年4月29日

やけに重々しい題名を付けたが、やはり院生として大学に長く籍を置いている身として、常々大学院の将来の姿に興味のあるところに、New York Times 紙面に掲載された End the University as We Know It という記事を読んだので、今の考えを纏めておきたい。この NYT 記事の著者 Mark C. Taylor 氏は、院卒者量産機械と化した米国の大学院の改革を提案している。

大学院改革が必要なのは、量産されている院卒者に見合う職が少なく、博士論文の極端な専門化という過程があるため。院卒者は専門知識があるものの、その知識の需要も学問によってはあまりない。したがって学歴は高くとも、専門以外だと即戦力ともならない。専門知識の幅も狭くなっている。学問が発達すれば発達するほど情報量が増え、研究はより細分化された専門的な物事を対象とする。悪く言えば、「専門バカ」が増え、専門バカであればあるほど学界では有利な制度が出来上がっている。特に文系では、研究職は大学や一部の機関に限られてしまうので、研究は小さいところを深く掘り下げる形となり、研究成果も「だからどうなんだ」と他人には理解されず、就職もままならず、金銭と時間の無駄になりかねない。

この専門バカ量産体制を打破しなければならないと Taylor 氏は主張している。学問分野を超える学際化(interdisciplinarity)と超学際化(transdisciplinarity)はすでに提唱されているが、私の見る限り、まだまだ専門分野の方が重要だ。話は逸れるが、これはすでに例えば大学内で職を得ている既得権益勢力もあるが、公的な助成金なども分野で振り分けられることが多いため、どうしても専門重視となる。

さて Taylor 氏は次の6点を提言している。

1 大学の課程の「網状化」:一分野に縛られない協力体制を作る

2 学部・学科の廃止:「プロジェクト」ごとにチームを編成し、カネとアタマを重点的に配置する

3 大学間の連繋を構築する:ビジネスのカタカナ語で言えばシナジー効果を狙う

4 「論文」をこれまでの本という形からの脱却:博士論文が出版されても、刷られるのはせいぜい数百部で、売れ残るのが普通の状態なので、他の形での研究成果の発表

5 実社会から隔離されない大学院課程

6 教授職を終身雇用制から7年契約に改める:必要とされる研究対象に臨機応変に対応できるようになる

学際化・超学際化は流れとして必要だと思っているので、1と3に異存はないし、2も考えとして面白いと思うが、6と同様に大学でこのような改革に同意を得るのは困難だろう。4はできないことはないが、出版物として形の残る方に固執する院生も多い。また5も必要だが、時間的に可能かどうか、議論になりそう。これから求められる院生とは、幅広い視野と専門知識両方を兼ね合わせた研究者となる。さらに金と時間がかかりそうだ。

一度に大改革を断行するのは困難を極めるだろうから、まず1と3の学問・研究の網状化と大学と官民研究機関との連繋強化を試みるのが先決ではないだろうか。私個人の考えとして、変化は急激にではなく、地道に徐々に行った方が「急がば回れ」で結果的により充実したものになる。